ボブ・ディランというアーティストをご存知だろうか?

先日、立川の映画館で「アイム ノット ゼア」という映画を観た。
6人の役者が、6つの時期のボブ・ディランを演じるという、
ユニークな演出の映画である。

ディランという人はそれだけ、激しく変貌しつづけているイメージがある。
それは時として、ファンの期待に背くことを、
意図して楽しんでいるかのように思えるほどである。

映画の中の6人のディランはしかし、
わたしの頭の中にあるディランのイメージとは、それぞれがかなり異なっていて(まあ、そこが面白いところでもあるが)
くすぐったいけれど笑うに笑えないような、
親戚のおじさんがあることないこと言われているような、
そんな気恥ずかしさを感じる映画だった。
こーいうの本人が観たら、くすぐったくって死にそうになるんじゃなかろうか?
ところがその本人は映画のラストにチラリと登場し、
人をおちょくったような顔をしてハーモニカを吹いていた…。

ところで、ボブ・ディランの魅力とはなんだろう?

わたしの場合、奥の深いアーティストの作品というのは、
最初に聴いたとき、あまりピンとこないことが多い。
逆に、一聴してすぐに良いと感じるものは、案外早く厭きてしまう。
ディランを最初に聴いた時も、あまりパッとした印象はなかった。
むしろ
「こんなんでいいのか?」
と思ったほどである。
歌が上手いとも思えなかったし、ギターのチューニングもちゃんと合っていない。
そしてあのガラガラ声。
まるで頑固な高齢者がしつこく愚痴っているような、うとましい(失礼)雰囲気。
訳詩を読んでも、何のことを歌っているのかさっぱりわからないもの多数。
けれど、なんか皮肉たっぷりな歌詞。
しかしせっかく買ったレコードだからと、暫く我慢して聴いていると、
ついにそこから抜け出せなくなっていた。
いったい、これってなんだろう?

そういえばミック・ジャガーをはじめてテレビで観た時も、
わたしはどうにも感心がならなかった。
ピッチのはっきりしない、フニャフニャしたボーカル。
くねくねした体の動き。
しかも上半身は裸である。
わたしはテレビに向かって
「ローリングストーンズかなんか知らんけど、やめんかい!」
と叫んでいた。

もっとびっくりしたのは、ブライアン・フェリーがディランの
「激しい雨が降る」を歌っているのを観た時だった。
この人はミック・ジャガーに輪をかけてフニャフニャしているばかりか、
さらにナヨナヨしていた。
「いい大人が、このザマは何だ」(超失礼!)
と思った。
しかも上品なスーツを着込んでいるのに汗だくである。
わたしはいらいらして、テレビを指差してこう叫んでいた。
「ロキシーミュージックかなんか知らんけど、さっさと上着を脱げよ!」

ところが後になって、ミック・ジャガーもブライアン・フェリーも
とてつもなく素晴らしいアーティストであり、シンガーであることがわかってきた。
このような人達に共通しているのは、
上手とか下手とか、合っているとかハズレているとか、
上着を着ているとか、裸であるとか、
そういう浅はかな価値基準をはるかに超えた
「だれにも真似の出来ないすぐれた個性」
を有していることだと思うのである。

さて、話をディランに戻そう。

話は急にさかのぼって、30年前。1978年2月のことである。

当時、15才であったわたしこと井形大作少年は、
ボブ・ディランの初来日公演を観に行った。
場所は大阪の松下電器体育館という、畑の中のバカでかい体育館。
アリーナにはおびただしい数のパイプ椅子が並んでいた。

この頃のディランはというと、「血の轍」「地下室」「欲望」「激しい雨」
と、傑作アルバムを矢継ぎ早に連発し、さらに
ローリングサンダーレヴューという大規模な全米ツアーを終えたばかりで、
アーティストとしてひとつの大きなピークを迎えていた。

わたしこと大作少年は、ディランを「神様」と崇め奉っていた。

しかるに、開演を待つ大作少年の小さな胸は、
期待と興奮で張り裂けんばかりに高鳴っていた。
ディランがステージに登場したら、
もうそれだけでおしっこをもらして(失礼)気を失ってしまうかも知れなかった。

ついにコンサートが始まった。

特に凝った演出もなく、ふらりとディランが現れた。

大作少年の席は前から3列目であった為、結構すぐそばまでディランが来た。

現れたディランはなんと…!

(Aへつづく)

「地下室」 ボブ・ディラン&ザ・バンド 1975

かなりラフな録音は1967年。
バイク事故で隠遁していたころのディラン。
(映画ではリチャード・ギアが演じていた)
8年もの間、お蔵入りになっていた2枚組。
レコードの帯には「あばかれた秘宝!」などと書いてあるが、 
わけのわからん歌詞満載の、アブナイ世界。

2008 6月
 ディランに会ったらよろしくと @