2008 8月
  音楽を教育する資格はあるか?

「音楽の授業が嫌いだった」
という人は多い。
かく言うわたしも、その中の一人である。

日本の音楽教育は、西洋のクラシック音楽が基礎となっている。
音楽室の壁には、ベ−ト−ベンやモーツアルトの肖像画が掲げられていた。
しかしよく考えてみると、
これっていったいなんでやねん
と、今になって思うわたしである。

授業では笛や歌のテストがあって、これがものすごく嫌だった。

わたしは決められた曲を、決められた通りに演奏するのが得意ではない。
それが他人の作った曲ならなおさらだ。
それも、大勢のクラスメ−トや先生がじっと見ている前で、
譜面通りに笛を吹くことなど、わたしにはできはしない。
そもそも譜面が読めない。
(わたしはなぜかいまだに、紙に書かれている音符と、実際に聞こえている音とを
頭の中で結びつけることができない)
小学生だったわたしの指は、プレッシャ−にぶるぶるとふるえていた。
当然、まともに曲を演奏することなどできず、結果、
最低の点数がつけられることになるのだった。

なんでやねん…。

これでは、いくらわたしが音楽好きでもやっていられない。

そんな「音楽教育」を極めた音大出身者のなかには、
譜面がないと、演奏ができない演奏家が意外なほどいる。
彼らは譜面さえあれば、どんな難しい曲でも演奏して見せる。
しかしどうやら、譜面に忠実に演奏することしかやっていないようである。
ジャムセッションをしようとすると
「即興演奏なんて、勇気がなくてできません。ジャズなんてしらないし…」
などと、ぶつぶつ言っている。

一方でわたしは、知的障害をもった人達の音楽セッションに参加しているが、
彼らの音楽を楽しむ様はすばらしい。
時には興奮しすぎて楽器を破壊してしまうこともあるし、
西洋的な音楽ル−ルなど鼻から無視しているが、
何の照れやためらいもなく、音楽と一体化しているその姿は
神々しいほどである。
彼らの音楽を採点することなど、わたしにはできない。
満点以外にありえない。

そもそも、音楽とは何なのか?

わたしが思うに、音楽とは
心身を日常から開放し、日々の生活に活力を与えてくれる
神様からの贈りものである。

音楽を教育するというのであれば、
いかにして音を楽しみ、それを自分の生活にどう活かしてゆくか
「音楽によって、どう豊かに生きてゆくか」
ということをテ−マとして、生徒を導いてゆくべきではないだろうか?
生徒はなにも、プロの演奏家になるために授業を受けているのではない。
子供を前に立たせて、むりやり歌わせて採点し
「もう、こんなのイヤ!」
などと思わせている場合ではないのである。

子供の歌を採点する資格など、誰にもない。

このアルバムを制作するため、10CCを脱退したといわれている彼ら。
ギタ−に取り付けられている弁当箱のようなものが、彼らが開発した「ギズモ」である。
エレキギタ−でオーケストラの音を出す装置。

もちろんサンプラ−やシ−ケンサ−などない時代。
右には16トラック(24トラック?)のアナログマルチが写っている。
いずれにせよ、とんでもない時間と労力がかけられていることがわかる。

ゴドレー&クレーム「CONSEQUENCES」1977

多重録音のバイブルともいえる3枚組。
外箱がボロボロのせいか、嘘みたいな安値で売っていた。
ところが、盤はピカピカでした…フフ!
CDと聴き比べてみると、歴然の差。音の定位感、奥行感がまるで違う。
CD化する際リミックスしたのだろうか。アナログのほうが断然よかった。