(先月よりのつづき)

曲の歌詞において、「皮肉」というものが重要な意味を占める場合がある。
この「皮肉」というやつは、
「喜び」や「悲しみ」あるいは「あなたが好き」
などといったストレ−トな感情とは違い、
裏面に隠されたねじれた感情である。
思っている事とは逆の事を言った後で、舌を出して「いひひ」と笑う。
そうすることで、より強烈で複雑な心理的効果を産み出す。
曲の中の「皮肉」と共感できたとき、わたしは作者と共犯者になったような、
大きなわくわく感をおぼえる。
それは時として、その「皮肉」に気づかない人々に対する優越感だったりもする。


そのB  『黄金虫』 (詞 野口雨情  曲 中山晋平)
    ・・・・・・ニッポンの「元祖メッセージソング」…かも。

     黄金虫は金持ちだ  金蔵建てた 蔵建てた
     飴屋で水飴買ってきた

     黄金虫は金持ちだ  金蔵建てた 蔵建てた
     子供に水飴なめさせた


余計な説明は一切ない。
ただそこで起こった事だけを淡々と述べている。
何かこう、真実の重みのようなものをどしりと感じてしまう。
やはり、野口雨情は怪物なのである。
さらに、この冷酷なまでに人を突き放したようなメロディ−はどうだろう!
作曲者、中山晋平も怪物なのである。
かれらはこの曲でいったい何を表現しようとしたのだろう?
それは、この歌を口ずさんでみればわかる。

子供らは、この歌を歌うことで、
一瞬にして「金持ちの本質」を悟ってしまう。



そのC  『ショート・ピ−プル』 (詞・曲 ランディ・ニュ−マン)
    ・・・・・・わからない人にはわからない、ねじれた皮肉の奥深さ!

     背の低いやつには  
     背の低いやつには
     背の低いやつには
     生きる意味なんてない
       ちっちゃなおててに ちっちゃなおめめ
       歩き回って 嘘ばかり言いふらす
       ちっちゃな鼻に ちっちゃな歯
       薄汚れたちっちゃな足には(Nasty Little Feet)上げ底靴
     背の低いやつなんていらないよ
     背の低いやつなんていらないよ
     背の低いやつなんていらない
     おいらのまわりには

         背の低いやつらは ちょうどおれたちと同じ
         おれのようにバカなのさ
         死ぬ日が来るまで 人類はみな兄弟
(All Men Are Brothers)
         なんて素晴らしい世界
     
     背の低いやつには
     背の低いやつには
     背の低いやつには
     恋人なんかできるわけがない
       赤ちゃんのような足で
       立っていても低いから
       あいさつするにも つまみあげなくちゃならねえ
        ちっちゃな車で ビ−ビ−ビ−
        ちっちゃな声で ピ−ピ−ピ−
        きたないちっちゃな指で
        ずるいちんけな性格で
        いつもみんなを困らせる
     背の低いやつなんていらないよ
     背の低いやつなんていらないよ
     背の低いやつなんていらない
     おいらのまわりには

「小さな犯罪者」  ランディ・ニュ−マン    1977


「ショ−トピ−プル」のほか
「太ったやつを馬鹿にはできない」なあんて曲も収録。
「陽気なおまわりさんの行進」も皮肉たっぷり。
確かにこの人、顔だけ見てもかなりヒネクレていそう(へんけん)。
   

この曲は1977年に発表され、全米2位になったのだが、
内容が差別的であるという理由から、
多くの州で放送禁止になってしまった問題作である。

背の低い人達のことを、これでもかというほど、バカにしている。
さて、この曲の裏にいったいなにがあるのだろうか?

まずこの歌詞は、作者自身の見解ということではなく、
この詞のような、差別的なものの見方をする人のことを歌にした、
ということであると思う。
でないと、聴いている人は(特に背の低い人は)
作者に対して、ただただ怒り狂うこととなる。
(しかし、まあ、真意は作者本人にしかわからないが…)
実際、当時のアメリカのロックシ−ンでは、
この曲はさまざまな論争を巻き起こしたのだった。
(日本ではさほど話題にもならなかったけどね)

なぜ「背の低い人」をタ−ゲットにしたのかについては、諸説ある。

どこにでもいる「ショ−ト・ピ−プル」を蔑視することで、
差別そのもののバカバカしさを表現しているのだ、とか。

これは「背の低い人」ではなく、
心が「ショ−ト」なピ−プルについて歌っているのだ、とか…。

この曲が発表された1970年代の終わり頃は、
日本企業をはじめとするアジア系企業が続々とアメリカに進出し、
アメリカの産業を侵食しはじめた時代であり、
低賃金でよく働く「ショ−ト・ピ−プル」であるアジア人に対して、
失業しそうになったアメリカの労働者のおっさんが
ぶちぎれているさまを歌にしているのだ、とも言われた。

しかしこの曲は何よりも、メロディ−が奇跡的なまでに良いのである。

やさしさに満ち溢れた旋律が、このキツイ歌詞に、
言葉では言いあらわせられない別の側面をあたえている。
このメロディ−がなければ、このシニカルな歌詞は
ただシニカルなだけで終わっていただろう。
   人類はみな兄弟  なんて素晴らしい世界
というくだりのトホホ感もよくでている。

アレンジも演奏も一級品である。

ウエストコ−ストのトップミュ−ジシャンたちが集結し、
とんでもない演奏をくりひろげている。
当時アメリカで人気のあった
リトルフィ−トとオ−ルマンブラザ−ズバンドをもじったような言葉が
くすぐりとして挿入されていて、これにもニヤリとさせられる。

しかし世の中には、
このような歌詞をそのままストレ−トに受け取ってしまう人がいるから
コワイんです。

昔、高田渡が「自衛隊に入ろう」という曲をつくった。
これは自衛隊の募集広告をおちょくった反戦歌であったのだが、
なんとその曲を防衛庁が「自衛隊のPRソングにしたい」と申し入れてきたそうな。
さらにその曲を聴いて、
本当に自衛隊に入ってしまった人がたくさんいたというから…。


そしてその後、この曲も、ご多分に漏れず放送禁止になってしまったのだった。
いったい誰が決めてんねん、そ−いうの。



         
    (Bへ続く…)

2008 10月
  歌詞は曲の生命線である。A