(…先月よりのつづき)

夜、ラジオをつけっ放しにして眠ってしまう。
すると、ラジオの音に刺激されて、真夜中にふと目を覚ましてしまうことがある。
そんな時、心は完全にオ−プンな状態となっている。
この曲をはじめて聴いたのは、そんな無防備な時だった。

そのE  『時代』  (詞・曲 中島みゆき)
    ・・・・・勘違いが巻き起こす、ひとり妄想の世界・・・・・

     まわる まわるよ 時代はまわる
     別れと出会いを繰り返し
     今日は倒れた旅人たちも
     生まれ変って 歩きだすよ

この曲のサビは、

    「まわる、まわる〜 よ時代はまわる」

という風に歌われる。
つまり、「よ」の前に一瞬の空白がある。

これが、この曲の一番のポイントである。

本来この「よ」は、「まわる」にくっつく「よ」なのである。
つまり
「まわるよ」
ということだ。
ところが、寝ぼけていたわたしの頭脳は、次のような勘違いをした。
後に続く「時代」に「よ」をくっつけて聴いてしまったのである。

「まわる、まわる〜、よ時代はまわる」

わたしは即座に思った。
「よじだい」って、なんだ?
時計を見たら、午前4時である。
「ふ〜ん、4時台か…。4次元の世界?
4次元の世界で死者がよみがえるという曲か?」

するとベッドの中でわたしのまわりを「4時台」がぐるぐるまわりはじめた。
わたしはひとりベッドの中で、涙をしぼり流して感動していた。
とてつもなくスピリチュアルな心理状態へと引きずり込まれてしまったのである。

このような歌詞にまつわる小さな(大きな?)勘違いは、他にもたくさんある。
それが作者の意図をはるかに超えて、
わたしを感動させてしまうのである。

こんなことは、わたしだけだろうか?

誤まった思い込みをして、自分勝手に泣いているのだから、
それはただの、「おめでたい人」ともいえる。

例えば、英語の曲を聴いていると、全体の意味はわからないが
所々、しっている単語が耳に飛びこんでくる。
その単語を組み合わせて、
自分勝手に曲のスト−リ−をつくりあげてしまっているわたし…。
あとで対訳を読んでみると、たいていはまったく違うことを歌っている。
そうするとわたしは、またまた自分勝手に、
ひどくがっかりしたりするのである。


そのF  『めんじょ』  (詞・曲 間宮芳生)
    ・・・・・意味がない! なのに、ものすごいインパクト・・・・・

   めんじょ めんじょ… め−めんじょ… めめめんじょ
   めめめ〜めんじょ  めんめんたばごろろ たばごろろ
       みょうみょう… かえかえかえかえ…
     めめちゃぶろ でろ〜んじ かえかえかえかえ…
   ぼろぼろぼろぼろ… めんめんめんめんめんめん…
     がらぼちゃって がらぼちゃって めらめ〜ぼろぼ
だ〜いろだ〜いろだ−だいろんじ ででろ〜んじ ぼ ぼ〜ろぼろつーぼろぼ
         のぼのぼのぼのぼのぼ…
           (以下、省略…)

「ピアノ三重奏曲」  ラヴェル    1915 初演

歌詞がなくても、言葉以上のものを語りかけてくる音楽もある。
わたしにとって、その一番手がラヴェルの音楽だ。
特にこの「トリオ」は、生きていることの罪深さ、根源的な悲しみのようなものが骨身にしみてくる。
晩年、脳に機能障害がでて音楽を創れなくなってしまったラヴェルだが、
こんな音楽を創ってしまったら、もうあとは死ぬしかないのかもしれない。

この曲を聴いたのも、真夜中のラジオだった。
ふと目が覚めた時、耳にこの曲が飛び込んできたときの衝撃たるや、
凄まじかった。
歌詞に何の意味もな〜い!
なんじゃこりゃ〜あ!と、松田優作状態である。(古い)
しかしわたしは今まで一度も行ったことのない、遠い場所へと旅をした。

わたしは翌日、さっそくこの曲と同じコンセプトで
(つまり、何の意味もなさない言葉を創作、羅列して)
オリジナル曲を創ってみようとしたが、うまくいかなかった。

この経験はもう10年以上も前のことで、
それ以来、ずっとこの曲のCDを探し続けていたのだが
ごく最近になって、とうとう入手できた。
ひばり児童合唱団が、自主制作盤として出版していたのである。
(ネット検索の力や恐ろしや…)

しかし、ブックレットの解説を読むと、
なんとこの歌詞にも
意味があるのだった。
そこでわたしはまた、例によって、いささかがっかりしたのである。
だからその
意味についてはここでは伏せておくことにしよう。

2008 12月
  歌詞は曲の生命線である。C