去年の11月に、フィールドフォークの祖である笠木透氏の
「うまくなるために歌っているのではない」
という、寺子屋主催のイベントに参加した。
このイベントのテ−マは
「わたしたちは、何のために表現活動を行っているのか」
ということだった。

わたしこと井形大作は、音楽で生計を立てているわけではない。
職業は介護福祉士である。
それなのに、少ない給料のほとんどを音楽につぎ込み、
空いた時間もすべて音楽のことに使っている。

こんなことで、大丈夫なのだろうか?

果たしてわたしは、何のために音楽をやっているのであろうか?

 @単に音楽が好きだから。
 Aギターが上手くなって女子にもてたい。
 B他にやることもないから。
 Cいい加減厭きているが、やめるにやめられず、意地になっている。
 D年に1〜2回、人にほめられることがあって、それがうれしくてやっている。
 Eもうちょっとがんばれば、今よりもましな演奏ができるような気がする。

まあ言ってみれば、
わたしにとって音楽とは、食事のようなものである。
そこから、心の栄養を汲み上げているのである。

音楽をただ聴いているより、自分で演奏したほうが、
より高い栄養を得ることができる。
それよりもっと栄養になるのは、音楽を自作することである。

ところで、
笠木透氏の話の中でわたしが印象に残ったのは
「鯉のぼり」にまつわる話だった。

今では大きな鯉のぼりを揚げている家など、ほとんど見かけなくなったが、
わたしが子供の頃には、5月になるとあちこちで鯉のぼりが見られた。
わたしがその当時見たのは、市販品の立派なものばかりで、
鯉のぼりとはそういうものだと思っていた。
しかしもっと昔には、鯉のぼりは親が自作していたというのである。
笠木氏の説によると、
「鯉のぼり」というのは子供の健康や成長を願って、
どんなに下手くそでも親が自作するのが当たりまえで、
立派な出来合いのものを高い金を払って買ってきて、
これ見よがしに揚げるというのは、
まったく物事の本質を見失っている愚かな行為である、と言うのだ。

そういえば正月の「凧」というのも、
手作りの物はほとんど見かけなくなった。
最近目にするのは、凧というより「カイト」といった感じの、
ビニール製の三角形のやつだ。
あれは風が吹けば揚がるように設計されているので、
いくら高く揚がったところで、さほど感動はしない。
「へえ、揚がってるね」
程度の感動である。
なぜだろう?
わたしの子供の頃は、親や親戚のおじさんが凧の作り方を教えてくれた。
自作の凧が揚がらなければ、自分の工夫が足りないせいなので、
なぜ揚がらないのか、自分で考えて解決しなければならない。
そのかわり、自作の凧が天高く揚がった時には、
大きな感動と達成感が味わえるのである。
市販の凧が揚がらなければ、
メ−カーにクレームをつけて交換してもらうだけなので、
達成感もへったくれもないのである。
つまり「凧揚げ」というのは、
凧を作って揚げるまでのプロセスをすべて含んで「凧揚げ」なのであって、
そのプロセスの中にこそ、「凧揚げ」という遊びの本質が潜んでいる。

これは日常生活のあらゆることに当てはまる気がする。

今やお金を出せば何でも手に入る。
市販品を買ってくれば、簡単に、とりあえずの満足は味わうことができる。
しかし、本当の心の栄養にはならないということだろう。

音楽についても同じことが言えると思う。

音楽はテレビやマスコミを通して、
プロの演奏家や作曲家が提供してくれるものがすべてではない。
あなたの本当の音楽は、あなたの中にしかないのである。

                              

2009 1月
何のためにやっているのか?