昔、学校で「音楽の3大要素」というのを習った覚えがある。
それは確か「ピッチ、ト−ン、リズム」であったように記憶している。
まあ、それはさておき、今日は少し視点を変えて
音楽の要素について考えてみよう。

わたしこと井形大作が考える音楽の3大要素とは、
「感情、思考、技術」
である。
この3つの要素がバランスよく統合されていることが、
魅力のある音楽の条件であると考えている。
(実はこの考えは、G.I.グルジェフの哲学からヒントを得ているので、
わたしの完全なオリジナルとは言えない)

@音楽の感情的要素
 音楽によって醸し出される、喜怒哀楽をはじめとする、
 感情に訴えかけてくる要素である。
A音楽の思考的要素
 楽曲における音の構造が面白いとか、その音楽の背景に興味深い意味がある
 とか、編曲が上手い、歌詞が良いとかいった、
 思考面に訴えかけてくる要素である。
B音楽の技術的要素
 肉体的な演奏技術。

極論してしまえば、この3つの要素が
いずれも高いレベルで統合されている音楽が最高の音楽ということになる。

ところがすべてのレベルが余りに高すぎると、
ついて来れない聴き手も出てきて、
ポピュラ−な音楽としては存在できなくなってしまう。

というのも、音楽というのは、聴き手の理解の能力も試されるからである。
聴き手は、自分の音楽の理解の能力を超えて音楽を理解することはできない。

例えば、ストラヴィンスキ−の「春の祭典」を聴くと、
わたしはその音の構成の面白さに感嘆し、原始人に戻ったような気分になって
部屋の窓を開け放ち「ガォ−っ!」と叫んで腕をぶんぶん振り回したくなる。
演奏の素晴らしさにため息をついて、時には落涙もする。
ところが、この曲を初めて聴いた時には
(確か中学生の頃、音楽の授業で聴いたのだが)
全篇がただの騒音にしか聴こえず、
生あくびを噛み殺してボンヤリとしていたのである。

わたしの場合「春の祭典」がいったい何なのか理解できるまで、
毎日いろんな音楽を聴き続けていても、
10年以上の歳月がかかっている。

さて、話を戻すと…。

ここでわたしが強調したいのは、音楽においては、
この「感情、思考、技術」という3つの要素が
「バランスよく統合されている」
ことが最も重要である、ということである。

では、アンバランスな音楽とはどういうものだろう。

例えば、
悲しみに満ち溢れた単純な繰り返しばかりの下手な演奏を、
長時間聴いていなければならないとしたら、それは拷問のようなものだろう。
あるいは、
演奏技術だけをひけらかすような、面白くもなんともない高速弾きを、
必要以上の大音量で聴かされるのも勘弁願いたい。

例えレベルがそんなに高くなくとも、
3つの要素のバランスが取れている音楽のほうが
圧倒的に魅力があるように感じるのである。

だから作曲家や演奏家は自分の中で、
この3つの要素を「バランス良く」育んでゆかねばならない。

その意味で陥りやすいのは(これはわたし自身のことでもあるが)
技術的に未熟であるのに、思考面だけが育ちすぎてしまうケ−スである。
音楽の理解能力(思考面の発達)に比例して、
自らの演奏技術も引き上げてゆかないと
音楽をプレイし続けてゆくことは難しくなってくる。
演奏技術を引き上げるのは、とても時間のかかる肉体的作業であるため、
これが一番遅れてしまうのである。
そうなるとどうなるか?
自分の演奏技術の未熟さを、
正確に自覚してしまう、ということがおこる。
すると、たちどころに自信が失せて
「才能がないので、今日でやめます」
となってしまうのである。
今までそのような人をたくさん見てきた。

しかしまあ、いきなりやめるというのももったいないので、
わたしこと井形大作のように
「下手で何が悪い!」
「上手くなるためにやっているのではない」
と、開き直って、続けてゆくのが良いだろう。
10年くらい、毎日こつこつ続けていれば
「意地っ張り」とか、「変人」とかいう言葉を浴びせかけられるかもしれないが、
誰でも嫌でも、演奏技術は向上するからである。

10年も毎日やってられるか!恥ずかしい!
という人も、まあ、心配することはない。
それならば音楽プロデュ−サ−か、音楽評論家になる道が残されている。


                              

2009 4月
    音楽の3大要素