「チッ!うっせ-な、反省してま~す」
これはよかった!
なんてキュ-トな発言!
わたしにとって、今回の冬季五輪の「金メダル」はこれである。
このスノボの國母選手に関するニュ-ス報道は、じつに面白かった。
たてまえと本音の亀裂がどかん!と埋まるこのような瞬間を見るのは、
本当に爽快である。
マスコミは國母選手のかっこうを次のように称していた。
「服装の乱れ」
あははは!
わかっている人はわかっているだろうが、
あれは「服装の乱れ」ではない。
あれはスノ-ボ-ダ-特有の
ヒップホップ系の「スタイル」なのであって、
國母選手にしてみたらあれは「服装の乱れ」どころか
キチンと定められたとおりに「正装」をしているのである。
だから
「個性があって、あれはあれでいいんじゃないの」
なあんていう意見も、的外れである。
もう一度いうが、
あれは決められた「スタイル」どおりに着くずしているのであって、
國母選手自身の個性ではない。
國母選手はその「スタイル」を踏襲(ふしゅう?…なつかしいギャグやで)
しているのである。
「スタイル」には、「なぜそうでなくちゃならないのか」という思想が必ずある。
ゆえに「スタイル」というのは、宗教でもある。
だから、周りの人間が、実害を被ってもいないのに
それについてとやかく非難をするというのは
「信仰の自由の侵害」に相当する。
・ パンクのスタイルは、やぶれたTシャツに安全ピン。
・ ロカビリ-のスタイルは、革ジャンにリ-ゼント。
・ ヘビメタは、長髪に黒魔術にクサリに十字架。とんがった変形ギタ―。
・ ベンチャ-ズは、ワイシャツをズボンの中に入れてモズライトでテケテケテケ…。
・ 楳図かずおは、赤白の縞模様。
このように、すべてちゃんと決まっているのである。
國母選手の場合、「ニッポン選手団」というスタイルの中に
ヒップホップ系のスタイルを持ち込んで叱られたわけであるから、
これは一種の「宗教戦争」だ。
「宗教戦争」とは、スタイルとスタイルのたたかいに他ならない。
例えていうなら
仏教系の法事の席でいきなり十字をきって
「ア―メン!」
と叫ぶと、同様のことがおきる。
つまり、非常識であるといっておもいっきり叱られるのである。
さて、
この「スタイル」というものの特性として、必ずおこることがある。
「時代に合わなくなってすたれてしまう」ということがおこる。
今さら革ジャンにリ―ゼントでステージに登場し、
足をパカパカ開閉しながらエコ―をきかせてホワイトファルコンを高速弾きしても、
そのスタイルを「しらない人」以外は誰もおどろかない。
「ノスタルジックですね~」
と、苦笑されてしまうだけである。
わたし自身、80年代ニュ―ウェ-ブのスタイルに傾倒していたことがある。
モミアゲをみじかくとんがらせて、モノト-ンの服を着て、
デヴィット・バーンのような、にわとりのような、
ア-トのような踊りをしながら歌っていたのだ。
いま考えると赤面を禁じ得ない。
このように書いているだけで「しまった…」と思わずつぶやいてしまう。
消し去りたい過去である。
「スタイル」が古くなってしまった典型的な例の一つに、
現代の大相撲がある。
相撲は
「五穀豊穣、子孫繁栄を祈念して、神様にささげる神聖な神事」
であって、ただの格闘技ではないのだから格調高くやれ、
というのだが、この前提自体がとっくにすたっている。
この件に関して、わたしがもし日本国の神様であったなら、
朝青龍がガッツポ-ズをとったり、対戦相手をギロギロにらみつけたりすることには
特に苦言を呈したりはしない。
そんな細かいことにいちいちケチをつけているようでは、
「神様」はつとまらない。
そんなことより、日本の農業をズタズタボロボロにし、
食料自給率をほとんどゼロにしてしまった日本国民に対してこそ、
大きな怒りをおぼえるであろう。
「五穀豊穣」を祈念するなら、
まず「農業」のほうをキチンとやってから「神事」をやるのが順番というものである。
「スタイル」に対して、不変のものがある。
それはその人が生まれ持っている「本質」である。
「スタイル」と「本質」は、まったくべつべつの場所にある。
「スタイル」はコロコロ変えることができるが、
「本質」は絶対に変えることができない。
「スタイル」でもって「本質」をおおい隠すこともできない。
言いかえると、どんな「スタイル」の中にも「本質」は垣間見えている。
音楽にしても然り。
どんな音楽スタイルをとっていようが
(クラシックだろうが、レゲエだろうが、ビ-トルズだろうが、サブちゃんだろうが)
作曲者、演奏者の「本質」は音となってあらわれてしまう。
とくに人が我を忘れて必死のパッチになった時、
「本質」はその姿をあらわにする。
そして本当に重要なのは、この「本質」のほうである。
人間の「本質」なんて、実は似たり寄ったりである。
たいていは、せこくて、ずるくて、かわいいのであるが、
時として、とんでもなく美しくあったりもする。
身体を反り返らせて空を舞った、國母選手のように…。