…先月よりの続き…
1977年。
ヤマハポプコン関西地区決勝大会。
その楽屋の片隅で
緊張と過度の喫煙のあまり、昏睡しそうになっているわたしこと井形大作(15)に
優しく声をかけてくれた出場者の人がいた。
シンガ-ソングライタ-の
算海(さんかい)さん…当時22才…であった。
算海さんもわたしも、
ポプコンの全国大会には進めなかったのであるが、
算海さんは自分が出演しているライヴハウスのマスタ-に、
わたしを紹介してくださった。
おかげでわたしはそのライヴハウスで月一度、歌わせてもらえることになった。
それが大阪布施(ふせ)にあった
「バルバラ」
という店である。
その「バルバラ」で、
もうひとりのシンガ-ソングライタ-と出会った。
その人は東京から月に一度歌いに来ている人で、
水野たかし…当時28才…という名の人であった。
算海さんも水野さんも、それぞれ独自の世界、個性を持っていて、
心に染み渡るような、あたたかい歌を歌われていた。
もちろん井形大作の歌など、足元にも及ばなかった。
そばで聴かせてもらっているだけで、本当によい経験となった。
その後、18才となったわたしは
「プロのミュージシャンになりたい、いや、なれるはず…」などという、
つごうのよい思い込みのような、ピンク色の幻覚につつまれて上京したので
「バルバラ」には出演できなくなった。
若い頃わたしは
「別れの挨拶」というのが、どうやっていいのかさっぱりわからず
「さようなら」の一言が言えないアンポンタンであった。
バイトでもなんでも、いきなり黙って辞めてしまうのである。
だから算海さん、水野さん、「バルバラ」のマスタ-といった
お世話になった人たちとも、
ろくに挨拶もせずに別れてしまった。
そしていつのまにか、「30年」という月日が流れたのである。
井形大作は48才となって、プロのミュージシャンにはなれなかったが
「さようなら」
くらいの挨拶は、どうにかこうにかできるようになった…。
なんでそんな昔話を今ここでするのか?
来る9月4日(土)に、
くにたちにその3人が集まり、ライヴをすることになった。
奇跡である。