(…先月からのつづき)

さて、
バセドウ病の手術の失敗によって、歌が歌えなくなったわたし…。

それはわたしが33歳の時、今から16年ほど前の話である。

わたしは音楽で生計をたてることをあきらめた。

その後、ヘルパーの仕事に没頭する3~4年が経過した。

在宅ヘルパーの仕事だけでは飽き足らず、
施設で入浴介助や夜勤のバイトもやった。

ようやくヘルパーの仕事も板についてきた頃。

わたしの声は遅ればせながらにして、
なんとすこしずつ回復してきたのである。

8フレットぶん(4音)下がったキーが、
1年に1フレットぶんずつ上がってきた。

現在のところ「元通り」というところまではいかないが、
なんとか歌えるようにはなっている。

手術まえにくらべると声量がなく、
ピッチのコントロールもむずかしいのであるが、
歌い方のスタイルを変える(小さな声で力まずに歌う)ことで
対応できるようになってきておるのである。

バセドウ病の手術の失敗さえなければ、
このような苦労をすることもなかったわけであるが、
今にして思えば、
この挫折の経験はわたしにとって、
何にもかえがたい「宝物」となっている。

現在ではこの時の経験が、
曲を作る際の精神的な支柱となっているのである。

加えてもうひとつ、
音楽を(金を稼ぐための)職業と考えなくなったことで、肩の荷がおりた。

今にして思えば、この荷物は実に無駄なものであった。

音楽をプレイする目的とは、単純に音楽で遊ぶことである。
そして自分の理想とする音楽に、
日々、じりじりと迫っていくことである。

わたしの場合、
音楽をなにか別の目的のための手段と考えると、ろくなことにはならない。

それにやっと気がついた。

そのことでわたしは音楽に対して「本来の自由」を奪還したのかもしれない。
(ちょっとおおげさか!)

かようにして…
試練とは、その人の必要に応じて天から与えられるものなのである。
(さらにおおげさ!それにえらそう!すいません!)

去る7月に、高校の同窓会があって、奈良に帰った時のことである。
クラスメ-トが当時のわたしが自主制作したレコード(ドーナツ盤!)を
保管してくれていて、これをわたしにプレゼントしてくれた。

このレコードは、わたしが高校3年生の時、
奈良の音楽コンテストに優勝した副賞としてレコーディングされたもので、
わたしもとっくに紛失していたのである。

これを聴くと、かつて井形大作はロックシンガーであったことがわかる。
32年まえ、17才だった井形大作の歌声である。

       
「朝の似合うまちへ」(1979)




    ☆もし今これを読んでいるあなたがバセドウ病の歌手で、
     甲状腺の切除手術を検討しているなら、
     次のことを参考にするとといいだろう。

    ①自分は歌手であり、声質が変わってしまうと困るのだということを、
     しつこいくらいに執刀医に言おう。

    ②手術中、患者に実際に声を出させて、声帯を動かせている神経を確認しながら
     行う手術法がある。必ずそれをやってもらうこと。

    ③「手術をしない」という選択肢もある。
     この場合、甲状腺機能を抑える薬をほぼ一生のみ続けることになる。
     だが手術をしたからといって必ず薬と縁がきれるわけではない。
     わたしの場合、甲状腺を多く切り過ぎたせいで逆に機能低下症になってしまった。
     このため、今度は甲状腺ホルモン剤を一生のみ続けなければならなくなった。
     ただ、機能亢進症(バセドウ病)よりは機能低下症のほうが身体は楽である。(わたしの場合)

                                   



 
                           

2011 10月
   「歌手がバセドウ病になったなら ③」